外国人が日本人をみて不思議に思うことにひとつに、ブランド漁りが挙げられるといわれています。 パリでバックや財布や時計なんかを買い求める、あれです。日本人どうしでも、ブランド物のバックに 興味のない人から見れば、なぜそこまで執着するのか不思議に思えてきます。
その心理はあとで考えるとして、そうやってブランド物を買い漁るとどうなるでしょうか。多くの人が
同じブランドのものを買い求めれば、結果として誰を見ても同じブランドのものを持っていると
云うことになります。これを仮に「ブランドによる画一化」と呼ぶことにすると、この話は実にさまざまな
分野で起こっています。音楽の世界でも例外ではないのです。
たとえば、クラリネットのマウスピースで考えてみると、ほとんどの人がバンドレン社のマウスピースを
使っているような気がしませんか。楽器メーカであるセルマーもYAMAHAもクランポンも、自社ブランドの
マウスピースを作っていて、楽器を買えばついてくるし単体でも販売されているとカタログにはあります。
でも周りの人はほとんどバンドレンだし、楽器メーカーのマウスピースの単体販売はセルマー以外あまり
見かけません。楽器メーカーじゃない、他のメーカーもあるはずなのに、と思いませんか。
このような状態は、普段余り気にしませんが、改めて考えてみるとやっぱり何か妙な感じがします。
これが部外者から見ると、特に際立った「不思議な画一化」に見えるのです。
ではまず手始めに、なぜブランドに傾倒してしまうのかを探ってみましょう。
私たちが物を買うとき、判断基準はいくつかあります。思いつくのは、品質・価格・性能・デザイン
といったところでしょうか。私たちはこれらの項目を相対的に比較したり、自分の持っている絶対的な
基準と比較したりして、どれを買うか、あるいは買わないのかを決めているといえます。
これだけで話が終わるのならば、ブランド(野菜なら産地)が購入の判断基準に入り込む余地は
少ないように思います。野菜を買うときに産地を気にするのは、ふつうは産地による味(=品質)の違いを
判断するための、判断材料とするためだからです。ところが、この判断材料を判断に使う基準は、
自分で作ったものとは限りません。もちろん、自分でいくつもの産地の野菜を実際に購入して、経験的に
「ここがいい」と考える場合もあるでしょう。しかし、多くの場合は「ここがいい」という外部の情報が
もとになってきます。現実問題として、無数とある産地のすべてを自分で試すわけにはいかないからです。
このあたりから話がややこしくなり、そしてブランド傾倒に流れていくのです。
ここでいう外部の情報には、さまざまなものがあります。ご近所や友達からの伝聞、マスコミの報道、
有名人の発言や行動もあるでしょう。それらを自分の判断の補強材料として使っているうちは
まだいいのです。ところが、人間は誰しも楽なほうがいいに決まっています。外部情報を補強にしつつ
自分の経験や知識を動員し、さらに自分で必要な情報をおぎなって考えるよりは、簡単に手に入る情報
それだけで判断の基準にしてしまったほうが、何倍も楽なのです。
みんながこのように考え、そして行動すれば、何かのきっかけで「これがいい」となったとたんに
みんながそれを買い求めるようになります。これが、画一化の基本的な構造だと考えられます。
さらに厄介なのは、このようなみんなで同じものを入手しようとした結果、品薄になって手に入れそびれる
人が出てきたり、価格が上がってしまうことです。みんなが欲しいけど手に入らないことで、「私は手に
入れることができる」ということを示す、という新たな動機が加わります。それをもっていること自体が
ステータスシンボルとなってしまうのです。
また、初心者や無知な人も「みんなが認めるブランドだから」という理由で、そのブランドを求めるように
なります。そうすればますます手に入りにくくなり、さらにみんなが欲しがります。このプロセスが、
ブランドに傾倒した状態、あるいはブランド信仰が成り立っている状態、といえると思います。