まずは、左の楽器をよく見てみてください。一見普通のBbクラリネットのようにも
見えますが、少し雰囲気が違います。右手小指で扱うキイ群をよく見てみると、
普通のBbクラリネットではこの部分のキイが4個であるのに対して、この楽器は
5個のキイが付いています。ほかにも、左手小指で扱うキイも普通のクラリネットより
1個多い4個ですし、左手薬指で押さえるトーンホールにもリングがある、といった
特徴があることがわかります。
このうち、左手小指のキイは、クランポンやヤマハの上位機種に装備されているものと
同じ、Fis/Desの替え指用のキイです。また、左手薬指のトーンホールについている
リングも、替え指を追加するためのキイです。これらのキイは、構造さえ工夫すれば
普通のBbクラリネットにも装備できる機構です。ただし、後者のシステムを装備した
クラリネットは、現在は作られていないようです。
では、最後に残った、右手小指の5番目のキイはいったい何なのでしょう。じつはこれが、
フルベームシステムというキイシステムの最大の特徴となるDes/Asキイなのです。
このDes/Asキイは、その名のとおりDes/Asを出すためのキイです。私たちが普段見かける
Bbクラリネットでは、最低音は実音D(記音ミ)ですが、フルベームシステムでは
このキイを使うことで、その半音下の実音Des(記音ミ♭)を出すことができます。
また、レジスタキイを併用することで、五線譜の真ん中に来るAs(記音シ♭)も
出すことができるのです。
さて、まずはこのフルベームシステムがどうして生まれたのかを考えてみましょう。
詳しい登場の経緯ははっきりしませんが、Bb管の最低音を半音下に延ばすことの
利点といえば、まず真っ先にA管の音域をカバーできるようになる、ということが
挙げられます。A管の最低音はDes(記音はミ)ですから、Bb管の音域が半音広がれば
最低音が同一になる、ということです。しかしこれは実は一番の目的ではなかったように
思われます。まず、Bb管とA管で楽譜の調が変わってしまいますから、指使いが
難しくなってしまう可能性があります。特に、Bb管とA管は半音違いですから、
調号がたくさんついてしまう可能性は大いにあります。そして最大の理由は
フルベームシステムのA管の存在です。もし、Bb管でA管の代用をするのが目的であれば、
A管の音域を半音広げる理由はありません。
ほかに考えられる理由としては、元々の最低音(実音D)と、そのほかの音との響きの差を
なくすために音域を広げた、というものがあります。普通の音は、ベルのほか
開いたトーンホールからも出てきます。これに対して最低音は、トーンホールが
すべて指やタンポで塞がれていますので、音はベルだけから出てくることになります。
些細な差のようにも見えますが、演奏を突き詰めていく中では大きな問題で、実際
この問題を回避するために、ベルにサブホール(小さな穴)を開けている楽器も、
エーラー式クラリネットなどで多く見られます。
開発された詳細な理由はともかくとして、音域も広がり、実音Dもほかの音と均一に
響かせやすくなるというフルベームシステムが普及しなかったのはなぜなのでしょう。
まずこの楽器を実際に吹いてみてわかることは、普通のBb管に比べて全体的に
音が鳴りにくいというか、鳴らしにくい印象を受ける、ということです。もちろん
この楽器固有の特長である可能性もありますが、そうならざるを得ない理由が、フルベーム
システムにはあるのです。それは楽器が重くなる、ということです。
音域が半音下に広がるということは、楽器の全長がその分だけ長くなる必要があります。
そうなれば、その分だけ楽器は重くなります。また、Des/Asキイをつければそれも
重さの増加につながります。そして、楽器全体の重量バランスも変わってきます。
たかがキイ1本、と思われるかもしれませんが、奏者の中には先述した左小指の
Fis/Desキイを「響きが損なわれる」という理由で外してしまう人もいるそうですから、
意外と影響は大きいようです。
また、本体が延びキイが増える分だけ材料費も工賃もかかりますから、楽器も
値段が上がります。その上昇に見合っただけの機能向上であれば受け入れられますが、
そうでなければ受け入れられない、という自然の摂理も働いたようです。
では、フルベームシステムの発明は、まったくの無駄だったのでしょうか。 そうではありません。アルトクラリネットや、バスクラリネットをよく見てください。 これらの楽器は、最低音が記音でミ♭になっています(バスクラは最低音が記音ドと いうものもあります)。大型の楽器では元々全体の重量がありますから、本体や キイが増えることで重くなってもカバーしやすいですし、値段も元が高いので うまくカバーできる、ということなのでしょう。
せっかく発明されながら、Bb管には普及しなかったフルベームシステム。クラリネットの 歴史をたどると、フルベームシステムに限らず、発明・考案されながら結局は 日の目を見なかった機構がたくさんあります。そのような一見無駄だったかのように 見える試行錯誤を経て、今のクラリネットがあることは忘れずにいたいものです。